「健康的な生活を送ろう」は報われないという話

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妻が実家に戻っています。父親が末期ガン、肺ガンだということです。母親と実家のそばに住む従姉妹は、精密検査の結果で動揺しまくっていましたが、東京にいるわが家は逆に「いや、人間そう簡単に死なないでしょ」と落ち着いていました。

妻の実家は厳格なほうで、食事も「健康的であるか」を基準にしていたといいます。もちろん、子どものころからずっとご飯といえば「玄米」食です。ハンバーガーやカップラーメンとは無縁の食生活です。「感謝しないわけではないけど、イヤでイヤでたまらなかった」といい、いまは何でもありの食生活です。

「健康的であるか」を基準にした食事を徹底し、広い庭で家庭菜園をつくり、山登りを日課のようにしても、ご両親ともに高齢になるに連れてやや深刻な病気を抱えています。同年代である私の両親がけろっとしていて、祖母が95歳でピンピンしてるのと比べてみると、「人間は結局遺伝子で決まってる」なのかなあと改めて思います。

遺伝子で決まってるからには、努力は報われることはありません。それでも、克服できるかのように希望をもたせ、お金を引き出すビジネスの代表が健康食品です。

米食も、ちょっと調べるだけでブラウザを閉じたくなるくらい宗教的な世界になっています。玄米食の取り組みとあわせて政治的な発言に満ち溢れたサイトも、無数にあります。健康的な食事と、宗教や政治活動は相性がよいようです。この辺は深掘りしませんが、みえている世界が狭いように感じますし、健康への悩みを抱えているひとを、食事をきっかけに宗教や政治活動に巻き込もうとしているのが見え見えでいたたまれなくなります。

以前妻と、不動前にある「豆を中心にした野菜だけのメニュー」のお店で食事をしたことがあります。ふたりともお腹を壊したとかそんなことはともかく、そのお店は2年で閉店しました。サービスレベルは最低でした。食事の時間は楽しくなく、ストレスからむしろ健康を害したのではないかと思ったほどです。スタッフは「地球がー」とか「今度のボランティアでー」とか意識高い雑談をしているのですが、「地球と対話」する前に、目の前にいる客の注文とってくれよと思ったものです。

もちろん、意識の高い食事の効果がないとは思いません。ただ、閉鎖的なコミュニティに好まれるものは、明らかな誇張をもって宣伝されます。所詮は高マージンで搾取するためのビジネスですから、信じても報われることはありません。その効果を根っこから疑ってよいとも思っています。

「長生きをしたければタバコはやめておけ」の常識についても考えてみます。5年前に高校時代の同窓であつまった時、20人くらいのなかでタバコを喫うのは、男ひとり、女ひとりのふたりだけでした。高校生のころには喫っていたやつも、40歳になったらだれも喫っていないのです。

しかし、そのタバコを喫うふたりは、ふたりとも医者でした。医者の喫煙率100%、医者以外はゼロの場でした。寄付金で医大に進学したようなヤブではなく、成績は学年トップレベルでスポーツもできて美男美女モテモテなマンガ的エリートたちです。ひとには「タバコやめろ」言いながら自分たちが喫っているのは、「都心にマンション買おう」と宣伝しながら自分は近郊で賃貸に住む財閥系不動産デベロッパーの従業員をみるようです。

抗体とか遺伝子がどうこうといったことで、喫っても喫わなくても同じだから喫っているという説明でした。さっぱり理解できませんでしたが、私たちがふだん「CCRがー」「NOIがー」と一方的に言っているのと同じなのでしょう。

というわけで、「正しい情報が何なのか、結局わからないのではないか?」と悟ることが気楽に生きるには大切なのだと思っています。正しいかどうかではなく、気楽にできるかどうか。ひとは楽しくないと、ストレスから免疫が一気に衰えて不調になり、結果として死にやすくなります。「健康的な生活」が苦行、修行になっていたら、逆に早い死を望んでいるようなものです。

妙な健康飲料にはまるよりも、教祖による波動がどうのこうのなやかんでわかした白湯をゆったり飲むよりも、よく冷えたコーラ1本をぐびぐび飲んでしゃっきりした方がよかったりするのが、人間の不思議なのでしょう。そんな悟りから、仕事中にコーラ飲むようになったこの頃です。