いまさらの、経験や感動の共有とは

平昌オリンピックから日曜日に帰ってきた妻は、月曜日に休みをはさむことなく出社していました。もちろん、羽生結弦選手の金メダルをとった演技が話題になるわけですが、どうも周りと自分との感覚にズレがあってもやもやしていたそうです。

自宅で録画していたテレビ番組で演技をみて、そのもやもやも解消。カメラが追う映像と、解説。これらによって印象が大きく変わってくることを、改めて実感したとか。会場でものすごく冷めてみていた選手の演技も、テレビを通すとなんとも魅力的な演技に見える。会場では異次元にしか見えなかった演技も、テレビを通すとなぜか他の選手とそう大差がない演技に見える。解説は会場でみていた自分と同じ温度だけど、映像から受ける印象とズレていることがわかったと。

テレビでみる羽生選手のフリーの演技は、私には最初から最後まで絶好調に見えました。会場では、前半の終わりにはもうヘロヘロに見えて、残りの体力の心配どころか、もう最後まですべらなくてもいい、よくやった!という思いで見守っていたそうです。妻は採点基準なども詳しいです。途中のミスで、それを挽回するために構成を変えようにもいまの羽生選手にはムリではないか、金メダルもムリではないかと判断していたのを、解説員も同じ考えだっただろうと声のトーンからわかったそうです。そこで、構成を変えて、もうヘロヘロなところで3回転ルッツを決めたときは、そのムチャに挑んだことに自分は号泣し、解説員が本当にあぜんとしていただろうこともわかったそうです。

現地で、自分で体験していることの感動は伝わらないし共有できないもので、それはいまでも変わらないものなんだなあと、ちょっと考えさせられます。そもそも、感動って共有できるようなものなのか。伝えるようなものなのか。周りは周り、フィルターはフィルターとして、自分が楽しかったんだからそれでいいじゃない、感動したんだからそれでいいじゃない、で十分なんでしょうね。というわけで、次は一緒に行かないと。